2020年5月21日 初出
「事後孔明」あるいは「事後諸葛亮」という言葉がある(※1, 2, 3)。(以下本稿では事後孔明という表記に統一する。)発祥は1970年代の中国文学とされる。
諸葛亮孔明といえば中国・三国時代の著名な軍師である(※4)。一般に軍師、すなわち軍事作戦の参謀というのは、その場の状況や今後予想しうることを考慮して、人や物をどう動かすかを考え実行する職業である。とすれば、高名な軍師とは状況判断や予測・洞察の能力に長けている人物といえよう。
事後孔明という言葉には、「すでに終わった出来事に関してであれば、誰だって高名な軍師のごとく振る舞うことができる」という意味が込められているのだろう。それは「今後の教訓にするための振り返り」という意味合いでは有効であろうが、それ以外の目的では有効でない。まして、判断が求められる状況下での判断を、後日非難するようなことは、避けなければならない。後日になってその当時のデータを振り返ったときに最良と判断された選択肢は、その当時最良と判断できたものとは限らない。
「新型コロナウイルス感染症の感染が確認された人数を、感染したと推定される日ベースでグラフ化すると3月27日をピークに減少しており、その後4月8日に緊急事態宣言が出されたのは意味がなかった」とする言説が出回っている(※5)。
しかし、今回の新型コロナウイルス(COVID-19)に関しては、潜伏期間や検査に要する時間を考慮すると、感染が確認され発表されるまでは2週間見る必要があるとされる。緊急事態宣言を発するという方向に向かったのは4月6日である(※6)ことから、その3月27日からは2週間は経過していない。
当時の社会情勢を振り返ってみると、3月20日(春分の日)からの3連休を前に学校への休校要請を全国一律には行わないとする発表が行われるなど楽観ムードが蔓延して外出が増加しており、事実その3連休の行動が原因での感染拡大が地方部でも見られた(※7)。再三の自粛要請にも関わらずさいたまスーパーアリーナでの格闘技大会が中止されなかった(※8)など、ハイリスクな行動に対する抑制が急速に緩み始めていた時期である。その状況を放置することを是とする為政者はいなかっただろう。そのために強いメッセージを発する必要があったというのは想像に難くないはずである。
そして3月25日以降、小池東京都知事はじめ南関東の各県知事から、夜間と週末の外出自粛の要請が発出された(※9)。3月27日というのはこの期間の金曜日であり、とすれば外出自粛との因果関係はむしろ否定されないのである。この自粛要請は法的裏付けがなかったが、私の住むさいたま市内では多くのショッピングモールがこれで休業するなどした(※10)。そして最終的に4月8日の緊急事態宣言により法的裏付けが生まれたのである。緊急事態宣言の終期が当初5月6日とされていた(※11)のは、単純に1か月間としたことよりも、春分の日3連休の対応の反省から、大型連休に向けた外出自粛や休業の要請の推進という狙いがあったのではないかとも考えられるのだ。
このような時系列を見ると、「自粛を全国民に強要したがそれは無駄で不要」という言説は事後孔明であることもさることながら、そもそも自粛要請をしなかった場合、3月27日に感染者数がピークを迎えたという事実そのものが存在しなかった可能性もあることが容易に想像できる。これで非難されるのは、される側としては心外というものであろう。
また、私自身の場合、週に3日、新宿での仕事があったが、4月8日に緊急事態宣言が発出されたことによって、リモートワークを可能にする契約変更の手続きが行われ、4月16日から都内での仕事は取りやめとなった。個人的には緊急事態宣言によって初めてリスク低減を図ることができた立場なので、緊急事態宣言に意味はなかったとの言説は私自身の立場として是認することはできない。
これに限った話ではないが、過去に何が起きたかを振り返るときに、その背景が抜け落ちた人が非常に多いと考える。
今回の話は、9年前の東日本大震災の後、計画停電や夏季の節電要請が不要だったと主張する向きとの類似性を感じざるを得ない。実際には太平洋沿岸部を中心に多数の発電所が停止していた(※12)上、発電所は急停止などの突発事象も織り込まなくてはいけないため発電能力を額面通り織り込むわけにもいかず、そのため計画停電が行われなければブラックアウトの危険性もあった。1か月ほどして計画停電は取りやめになったが、それは発電所の復旧が進み(※13)、また節電が進んだ(※14)からである。各々の努力により改善した問題を、あたかも自然に解決したかのように、あるいはそもそも問題がなかったかのように論じるのは邪悪としか言いようがない。
無から有は生じない(※15)。今目の前にしている現象には必ず何かの原因・きっかけがある。それが理解できない、あるいは何らかの陰謀という形に安易に結論付けてしまう人に限って声が大きいようである。
Footnotes